源氏物語と小野小町と人生哲学
源氏物語を読了しました。
今日はニッチな内容な気がするから興味ない人は戻ってください。
浮舟編で引き歌に「誘う水あらばいなんとぞ思う」が出てきて、「あっ!これ『うた恋い。』で見たことある!(進研ゼミ風に)小野小町のやつだ!」って思った。
知識が点でしかなかったの、段々線になって行くほど面白いことはない。
ハイライト引いたとこ是非紹介したいけど、多すぎる(特に玉鬘十帖はおもしろすぎて相当引いてある)。
宇治十帖で興味深かったのは、大君っていう最初の恋人が死んじゃって、その後生き写しの異母妹が見つかったときその妹のことを「人形」って呼んでたこととか。
個人的に宇治十帖で一番ぐっときたのはこの、匂宮が浮舟と契ったことを知った後浮舟に送った歌
「浪こゆるころとも知らず末の松まつらんとのみ思いけるかな」。
崖に立ってる松に波がかかったともしらないで→浮気されたとも知らないで待ってくれてるとばかり思ってたよ
って意味、たぶん。
うわぁ平安時代の人ってこういうふうにいろいろ駆け引きしてたんだあと思って鳥肌が立った。
いやだなぁこんな遠回しの手紙もらったら…。
清原元輔の「ちぎりきな」と関係あるかな?ない?よくわからない。
松とまつがかかってるのはわかる。笑
なんかこういう日本の古典とか大学で専門に勉強したかったなと思って非常に後悔してます。
どうして理系を選んだの高校時代のわたし…。結局好きなことをやるのが一番幸せなんだ…。純粋に生物が好きで大学に入った友達がずっとずっと羨ましかった。理系を選んだのは就職先が多そうくらいの理由だった。
理系なのにセンター理数より文系科目のほうがよかったし、っていうか国語とか11点しか落としてないから文系学生より良かった可能性高い。
いやそういう人間だから今は日本語教師やってるんですけどね。
*
こういうやつ。
んでその中にかの有名な句(百人一首に収録されている)、
「花の色は移りにけりないたずらにわが身世にふるながめせしまに」
の誕生エピソードが収録されているんですよ。
もともと相思相愛の相手がいたけれど、宮中で自分の実力を試したいという想いが諦めきれず、その恋を諦めて後宮に入る小野小町。
20年後、天皇の寵愛は受けたけれど子供を産めなかった小町は、「自分は後世に何も残せないのではないか?」と自問し、この和歌が生まれるというような。
悲しい、ぼんやりしてる間にもうおばさんになっちゃった。
もしあのときの恋を諦めていなかったら、人生をやり直せたら自分は同じ選択をするだろうか?普通に結婚していたら人生はどう違っただろうか?…
自分で決めたことだ、後悔はしない、それでも…と煩悶する小町。
でも友人の一人に言われます。
「そういう人生を送ったからこそ今の歌が詠めたのではないの?」と。
…。
今まで何度も読み返しているのに、なんか急に身にしみてね…。
自分と重ねるわけではないけど、わたしも、誰と連絡を取っても恋愛をしてもさみしさみたいなものはずっと消えなくて、
たぶんそれは仮に結婚して子供を得ていわゆる女の幸せを極めたとしても絶対に変わらなくて、どうしようもないものだなぁとか。
結局自分が残せるものはこのブログだけかなぁと、ぼんやり思っていました。
何もかも仕方ない、いいことも悪いことも全て前世の因果であって、多くを望まない、が、基本的なわたしの哲学で、源氏物語みたいな古典を読んでると共感できる。
天気がいいのは、いいことをしたから。雷が鳴るのは、自然の怒りに触れる行為をしたから。
科学の時代にナンセンスだと言われそうだけど、例えばじゃあ、女性の社会進出が増えたからといって女性が幸せになったかというとそうじゃなくて、古い価値観の中で、若くお見合い結婚をして、社会のことなんて何も知らないけどとにかく子供を育てて、夫に守られて専業主婦をして、そういう人生はそれはそれですごく幸せなはずだと思うわけです。
世界は狭い方が案外幸せに生きられるようにも思うんだよね。
生きることを諦めているとも言えるけど、できるだけ楽に生きる方法を追求した結果ですね。
小説を書こうとしたけどわたしは絶望的にひとつの作品を完成させる能力がないらしい。笑
人生が終わるまでに一本くらい世に出したい気持ちはまだあるけどね。
今の人生を送ったからこそ悟れる境地があるかも、しれない、よね。
さて、今日はこれから読書タイムです。次は何を読もうか。
また面白い本を見つけたら書きます。
では、また。